今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  川波の苛立つてをり年の市       野手 花子

 擬人法は俳句ではあまり奨励されない。対象の本質をむ前に理屈でこじつけてしまう。そんな擬人法が多いからだろう。もっとよく見て写生しなさいと諭されるのである。
 しかし、写生と擬人法は矛盾するものなのだろうか。例えば次の句はどうか。

  冬の水一枝の影も欺かず        中村草田男

 「欺かず」は擬人法だが、擬人法だと気付かないほど迫真の写生句に仕上がっている。本来人間に使うべき言葉を当てはめてみる擬人法には多くの可能性がある。
 掲句は「苛立つてをり」が擬人法。私は写生句として優れていると思う。強い北風に吹かれて、飛沫があがるほどの川波が立っているのだ。平凡な言葉を並べるより、「苛立つ」の一語で迫力のある描写になった。年の暮の気ぜわしさもこの擬人法を引き立てる。もう一句、

  風哭く夜なり五(ごん)の字と湯豆腐と     花子

 「五の字」は酒五合の隠語である。作風としては情感の味付けの濃いこのあたりが野手さんらしい。そういう作風と折り合って写生に励んだ成果が冒頭の擬人法なのだろう。

  天狼やみづうみは息凝らしつつ     大井さち子

 この句も擬人法を生かして緊張感のある大景をわが物にしている。天狼星と対峙して静まりかえった湖であれば、「息凝らしつつ」も納得できるのだ。 冬の夜空に力強く立つオリオン座と、その足許にあって全恒星中最も明るいシリウスすなわち天狼星は、冬の季語として大いに詠まれてよい。

  花街に差す実直な冬日かな       山地春眠子

 これも嫌味のない擬人法である。「実直な」というところがそれ。昼の静かな花街にてらいなく日が差しているのだ。人間くさい花街だから「実直な」が生きる。当世の風俗店街では似合わない。古風な花街の風情である。

  赤ん坊に尾骨あり冬がすみ      高橋 正弘

 受精卵は細胞分裂を繰り返して生き物の形を現す。人間も胎児の初めのうちは他の生き物と区別がつかないが、やがてだんだん人間という種のあるべき姿になっていく。そこには長い年月をかけた進化の縮図がある。赤ん坊が尾骨を持って生まれるのも進化の過程の名残なのだ。
 赤ん坊を抱いて手のひらにごりっと尾骨が触れたのだろう。とっさに以上のようなことを作者が思ったかどうかは知らないが、冬霞に進化の時間の奥行きが感じられた。

  笹切つて瑞穂国の煤払         市東  晶

 社寺仏閣の煤払であろう。山からたっぷり切ってきた笹で一年の煤を払う。日本の都市や農村の風景が変わっても、この煤払の光景は古代から変わらない。そう感じた作者に瑞穂国という美称が少しの誇張もなくやってきたのだろう。国中に広がる笹原が心に現れて癒される。

  窓秋忌雲はひかりをはこぶなり     榊原 伊美

 新興俳句運動に大きな影響を与えた高屋窓秋の忌日は一月一日。この句は元日の句だということになる。

  頭の中で白い夏野となつてゐる     高屋 窓秋
  石の家にぼろんとごつんと冬がきて

 夾雑物のない詩情に満たされた窓秋の作品は、有季であっても現実的な季節感が薄い。そんな窓秋の忌日には元日の明るい雲が案外似合う。

  鬼房ゐぬ片葉の葦の北風(きた)に靡き     伊美

 伊美さんらしさという点ではこの句のほうがよほど伊美さんらしい。窓秋忌の句は、あえて伊美さんらしさを抑えた簡素さに、窓秋へのオマージュとしての思いが宿った。

  すき焼や御居処ずらして座をつくる   コ田じゆん

 すき焼屋の小景。遅れて来た仲間を入れるのに席を詰め合わせたのだ。御居処というのは尻などとは口にできない女性のための言葉。この言葉の味がそのまま一句の味になった。若い女性はこんな言葉は知らないだろうから、この句の主人公の御居処の年相応の豊かさもおのずから想像されよう。

  梟や余生の決まる契約書        御前 保子

 現代の景だと思う。「余生の決まる契約書」とはただならぬ切迫感がある。例えば、住み慣れた家を売って介護付きの高齢者施設の権利を買う。そんなところだろうか。「そのほうが僕たちも安心なんだ」──契約書は業者を連れて息子夫婦が持ってきたのかもしれない。決断までの自問自答が梟の声と重なる。

  運ぶとき摺したりシクラメン     立神 侯子

 こんなことが俳句になるのだろうかという内容だが、なるのである。場所を移そうと鉢を抱えたら思わず目の前の花に頬擦りしていた。そんなものは俳句になるまいという制御装置を外してみると、まだまだ身辺に句材はありそうだ。

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