今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  師恩とは木箱のころの冬林檎      布施伊夜子

 最近はもっぱらダンボール箱を使うので、木箱の林檎を見ることもなくなった。木箱に詰まった赤い林檎はかぐわしく美しかった。雪のちらつく頃ならばなおさらである。布施さんは師恩とはそのようなものだと言う。
 師から教わったことはたくさんあっても知識や技術は断片にすぎない。その人柄も含めた総体として教え子の生き方を導いてくれるのが師恩というものだろう。師とともに将来を見つめた自分自身の初心の姿がそこにはある。
 「〜とは〜」という言い回しは理詰めに陥りがちなところがある。「そのこころは?」という読者の問いに落ちを用意してしまうのだ。しかし、掲句は違う。「そのこころ」は読者それぞれの思い出に聞いてくれというところ。落ちはないけれどなつかしい香りがする。そこが素敵だ。

  フィッシュポンプどどつと鰯吐きにけり 井上 魚州

 このような光景は私も映像で見た記憶がある。鰯や秋刀魚などの大量の魚の水揚げに使われるものだ。まさしくどどっと魚を吐き出す。作者は吟行でこれに目をつけたが何と呼ぶものかがわからない。漁協に問い合わせてフィッシュポンプだと突き止めたという。作者の粘りが実った句だ。
 俳句で詠まれる漁業は、今でも帆掛け船で投網を打っているようなものが多い。それが悪いと否定するつもりはないのだけれど、それだけではないだろう、と思う。掲句は荒削りではあるが、そんな思いに応えてくれたのである。

  ひよ鳥よ金柑きのふジャムにしたよ   島田 星花

 ヒヨドリは食い意地の張った鳥である。図体も大きいし鳴き声もうるさい。漢字で鵯と書かれるのも仕方ない。そのヒヨドリに金柑はとびきりのごちそうだろう。
 作者もヒヨドリも庭の金柑が甘く熟れるのを心待にしていたらしい。そろそろ頃合いかとヒヨドリが見に来ると、あれっ、一つもない。悔しそうに「ギャーッ」と鳴くのを、作者は窓ガラス越しに見てほくそ笑む。
 憎らしいヒヨドリも作者の手にかかると可愛らしい。わが家の庭でささやかに繰り広げられる生き物との交情の一齣が童謡のような楽しい口調で詠われているが、ヒヨドリらしさは余さず描かれている。

  ひりひりと空が真つ青神無月      清水 右子

 耳慣れた擬音語、擬態語を意外なものに使ってみると、思いがけずそのものの本質が露わになることがある。髭剃りあとがひりひりと痛むなどというのが「ひりひり」のふつうの使い方だろう。つまり、表面だけの感覚だ。空は宇宙まで続く奥行があるはずなのだが、真っ青な空はそうは見えない。痛いような青さが「ひりひり」で生きる。他に余計なものを見せずに神無月の季語でまとめたこともよかった。

  ひとつかみ罠の仕上の落葉かな     福永  檀

 派手な内容ではないが、ああ、俳句を読んだという満足感の残る句である。それはたぶん、書かれた言葉から気持ち良いくらい素直に情景が立ち現れるからだ。ポイントは「ひとつかみ」だろう。落葉を一みした感触は誰でも知っている。その感触を思い出すことで、見たことのない猟師の現場にたやすく入っていけるのだ。

  竜淵に潜み祠のコップ酒        遠藤 篁芽

 竜神伝説のある山中の静かな湖沼を想像する。水辺の小さな祠にコップ酒が供えられている。ここを通りかかる猟師が置いたものだろうか。水はいかにも竜が潜んでいそうな深い色を湛えて静まり返っている。
 中国後漢時代の字典に「竜は春分にして天に昇り、秋分にして淵に潜む」とあるのを典拠に生まれた「竜天に昇る」「竜淵に潜む」は俳人に人気のある季語だが便利に使われすぎている感なきにしもあらず。掲句の実直さは、この想像上の季語を現実の風景にぐっと引き寄せている。

  ウインドの老人は我小六月       藤岡 溺水

 ショーウィンドーに映った自分自身を見て「なんだか老けたなあ」と思ったのである。それを「ウインドの老人は我」と突き放してこの句はおもしろくなった。これが自分なのかと目を疑う作者、自分だとは思いたくない作者が見える。しかし、それは一瞬のことで、すぐにその老人が自分なのだと受け入れる。そういうことを繰返して人はやがて心身ともに老人になるのだろう。

  葱きざむ頭の中の予定表        小林比砂子

 朝食の味噌汁の葱でも刻んでいるのか。頭の中には今日の予定表がある。といっても特別な用事があるわけではない。今日を暮らすための段取りのようなものだ。それでも頭の中の予定表をチェックすることで、漫然と一日を過ごすのではない張りが生まれる。平凡な季語では平凡になる句だが、軽快なリズムの響く「葱きざむ」がとてもよい。

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