今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  いつさいを擲つごとく秋高し      小石たまま

 比喩の句。しかし、機知的な小賢しさをまったく感じさせない。作者は澄み切った空を見上げている。真っ青であること以外は残らず捨て去ったような潔さだ。まさに秋高し。禅に一切放下(ほうげ)の言葉がある。一切の執着を離れて、空は静寂の極みにある。
 正直言って「鷹」に入って日の浅い小石さんにどうしてこんな飛びぬけた句が生まれたのか不思議である。布施伊夜子さんの下で、潔く言い切ることの大切さを繰返し指導された賜物なのだろう。この句の秋の空がそうであるように、この句を詠んだ瞬間の作者には微塵も迷いがなかったのだと想像される。

  枯色の谺三鬼の海ちかし        中岡 草人

 三鬼の海と言えば次の二句を誰も頭に浮かべるだろう。

  水枕ガバリと寒い海がある          三鬼
  秋の暮大魚の骨を海が引く

 どちらも実景が契機になっているそうだが、作品に描かれた海は現実の海を超越した観念の海の様相を呈している。中岡さんの句も、その観念の海を想ってのものだと思われる。一面枯色の世界を谺がさまよう。それはあの三鬼の海の潮鳴ではないか。人生の最果てに至ってしまったような鬼気迫る一句。谺とともに作者の魂もさまようのだ。

  駅晩景サラリーマンと梨売と      藤田まさ子

 こういう光景は確かにある。勤めを終えたサラリーマンたちが駅を行き交う。それを当て込んで、産地直送などと小さな看板を掲げた梨売が駅前にトラックを停めている。確かにある光景だが、それが一句になるかどうかは言葉の手際のよしあしに懸かっている。
 この句は冒頭「駅晩景」と思い切って据えたことであとがらくになった。年季の入った巧さである。他の果物ではなく梨であったこともよかった。梨のみずみずしさが情景にうるおいをもたらす。そこにこの句の抒情がある。

  病室を船室(キャビン)とおもふ秋日かな 吉村 東甫

 頑丈が取り柄だと思って生きて来たのに、思わぬ病気で入院を余儀なくされた。一日ベッドに身を横たえ、窓から見える空、流れる雲、渡りゆく鳥たちを眺める。妻は傍らの丸椅子でうとうとしている。ふいに自分は船旅の途上にあって、どこか遠い国へ運ばれてゆくのだという気がしてくる。それはさびしいような、しかし何となく愉快でもあるような。
 元気なうちはあまり考えなかった人生というものに思いが及んだのだ。病室の句は多いが、この句の発想は際立って個性的。しかし、そこには確かな実感がある。

  蟋蟀や昭和の暮し展示室        吉田 澄江

 この句のような展示室は各地に増えているようだ。若かった両親の声が聞こえるような懐かしい昭和の暮しが、うっすら埃をかぶっている。どこかからまぎれこんだ蟋蟀の声がかろうじて昭和と現在を結びつけるようだ。
 今日の俳句がどれほど昭和という時代に負っているか計り知れない。とりわけ歳時記の生活の部には昭和の暮しが詰まっている。そしてその多くは現実の生活からは既に失われている。この句は、その昭和にしがみつく俳句のありようを暗示しているようにも見える。展示室を出たら平成の現在をまっすぐ見つめる勇気を持たなければ。

  先生の写真にわたし秋深し       杉崎 せつ

 大好きな先生だった。けれども先生を思い出す頼りはわずかに残った写真だけだ。その写真の先生の隣には、今より若い私が写っている。「先生の写真」と言いながら、この句の主題は私である。写真を見るとそのときの心持まで蘇る。しかし、もうそのときに戻ることはない。下五に置かれた季語が、そのときから今日までの時間の隔たりを感じさせる。それは、あのときの私と今の私の隔たりでもある。

  間口掃く肩になじみしちゃんちゃんこ  古川  鴾

 ちゃんちゃんこを着て掃き掃除をしている。およそ新しい句ではないけれど、しかしけっして古くさくはない。それは表現がすぐれているからだ。まず「間口」が巧い。昔からの商店街に構えた小さな店が見えてくる。ふだん着の上にちゃんちゃんこを羽織って、朝の開店前の店先を掃く。「肩になじみし」もちゃんちゃんこらしい。派手な句ではないが、身に添った言葉を的確に使いこなした句は飽きが来ない。

  訃報あり果報ありして桐一葉      松田 直子

 親しい人が亡くなって落ち込んだり、そうかと思ったら今度はうれしいことがあって飛び上がったり。そういうふうにして人生というものは過ぎ、人は年をとってゆく。取り合わされた桐一葉という季語がそこまで汲み取れと言っている。一葉落ちて天下の秋を知る──それは人生の秋を知ることでもあるのだ。

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