今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  水着なんだか下着なんだか平和なんだか 加藤 静夫

 具体的な場面は読者が好きなように想像すればよろしい。水着なんだか下着なんだか判然としないものを身につけた若い女の健康な肢体が作者の前をよぎる。
 音数は七、七、七だが棒読みしてはなるまい。俳句が読み上げられるときの抑揚を心憎いまでに利用している一句なのである。「水着なんだか」は静かに、「下着なんだか」で高揚して、「平和なんだか」は口ごもるような低唱。
 「平和なんだか」と対句になるはずの隠された一節がこの句のほんとうの主題であろう。それもまた読者が思い思いに想像すればよろしい。

  ゆづられし席あさく掛く花の旅     亀山 歌子

 桜の名所を訪ねる旅。混み合ったローカル線で若者に席を譲られた。
 「席あさく掛く」の描写になるほどと納得させる発見がある。申し訳なくて身を縮めているわけではない。社会の片隅で出会った思いやりに感謝する気持が自然とそうさせるのだ。切口のよい簡潔な描写は、あれこれ説明しなくとも人の心の動きをちゃんと伝えてくれる。

  原子炉の建屋高きに蝉当たる      筒井 龍尾

 例えばアパートのモルタルの壁に蝉がぶつかる。ひと夏の間に何度か目にする光景だ。他方、福島の原発事故以来、私たちは繰り返し原子炉の建屋の映像を見て来た。炎天下を歩きながら、作者の頭の中で両者がふいに重なったのだろう。原子炉の巨大な建屋に蝉が当たるのを実際に見ることはできまい。しかし、俳句の中では記憶の合成によって見えないものを見せることができる。それが掲句だ。
 原子炉の建屋の壁は本来重厚堅牢であるに違いない。しかし、制御不能の混沌を抱えたまま水素爆発でオモチャのように吹っ飛んだ映像を見せられているから、蝉が当たったこつんという音まで掲句から聞こえてきそうなのだ。まるでモルタルの壁のように。

  学名を持ち雑草で茂り合ふ       古川ただし

 植物にはそれぞれ立派な学名がある。しかし、真夏の原っぱを見れば、学名など不要、雑草でけっこうとばかりに生い茂っている。人間社会もかくあるべし、この句には古川さんのつぶやきが聞こえてくるようだ。人は皆それぞれ肩書を持っている。しかし、一人一人の人間としての魅力は別。肩書を背負わなければ一人前の顔ができないような人間との付き合いはご免蒙りたい、と。

  戦後しか知らぬ生涯南風吹く      利普苑るな

 私が小学生の頃、「戦争を知らない子供たち」という歌が流行った。戦後に生まれた若者たちの歌である。それから四十年余り。かつての「子供たち」は年をとり、振り返れば「生涯」と呼べるほどの時間が過ぎた。そのことにあらためて気づかされる句である。季語の南風はそれらの「生涯」を祝福するものだが、同時にその戦後を知ることもなく南国に散った多くの若い命を偲ばせるところもある。

  老人が石屋を覗く立葵         中山 玄彦

 墓石でも物色しているのか、老人が石屋を覗く。作者は通りがかりに見かけたそんな老人が何となく忘れられずにいるのである。そしていつしか、老人の顔を思い出すとそれが自分自身の顔をしている。死の意識がどのように人の心の中に忍び込んでくるのかを暗示する句だと読んだ。立葵の明るい生命力が対照的に美しい。

  号外を毟り取りたる大暑かな      野手 花子

 大暑の日、雑踏で号外を配る場面に出くわした。人々の手が我先にと現れては号外をみ取る。大きな見出しの衝撃と好奇心が無数の手を駆り立てるのだ。そうした手の一つとして作者自身の手も伸びる。この句の成功は「毟り取る」という言葉を得たことに尽きる。この言葉一つで、大衆社会の欲望の一端を窺わせるような迫力のある写生になった。

  初夏の水脈ををまぶしめり      山脇 洋子

 港を出た船が沖を目指す。作者は船尾に立って来し方を見つめているのだろう。船の後ろに生まれる白い水脈。そして船を追うように飛ぶ白い。紺青の海原に二つの白があざやかに浮かぶ。「水脈をを」と畳み掛けた中七に作者の高揚する気分が表れている。

  夏の灯や夫の洗ひし皿をふき      甲斐 有海

 今どきの若い夫婦の静かな宵の小景。共稼ぎで家事の分担が決まっているのだろうか。夕食の後、夫はさっさと台所に立って食器を洗い始める。頃合いを見て妻は脇に立ち、洗い籠の食器を拭いて食器棚に収める。小景を一つの詩情で包むような夏の灯の配合がよい。暑かった一日が終わり、涼しい夜風が窓から流れ込む。

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