今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  夜桜や連れの女がこんと鳴く      中村 哲明

 飲み屋で出会った女と妙に気が合った。夜道を連れだって歩くと、満開の桜の下を通るあたりで、女の返事がふいに「こん」と聞こえた。さては狐に化かされたか。しかし、そう気づいても男は女に未練がある。どうせこの世に少々飽きていたところだ。このまま行くところまで行ってみるか。
 嘘だと分かっていても絵になる情景というものはある。この句の夜桜は芝居の書割のように薄っぺらに見えて、けれども、それはそれで美しい。
 中村さんの俳句には通俗の味がある。今月では他に、

  算盤を胡散臭げに新社員           哲明
  履歴書の歳は七十初雲雀

といったところ。七十歳の履歴書は、もちろん中村さん自身のものだろう。算盤なら若い者に負けはしないのだ。

  隆明逝くしやぼん玉でも吹くしかないか  内海 紀章

 去る三月十六日、戦後思想を牽引した吉本隆明が亡くなった。全共闘世代後の新人類などと呼ばれていた年代の私には特別の感慨もないのだけれど、内海さんは自分の生きた一つの時代が終わったとでもいうべき感慨に襲われたらしい。背骨が抜かれたような脱力感が、「しやぼん玉でも吹くしかないか」に表れている。

  パンジー真つ黄どこかが壊れかけてゐる    紀章

 この国はこのままで大丈夫なのか。ひとり作者のみならず、作者の世代全体の嘆息でもあるだろう。

  春の雪触れたるものの色に消ゆ     岡田 芳昭

 水気をたっぷり含んだ春の雪である。泥に触れれば泥の色に、草に触れれば草の色に、ポリバケツに触れればポリバケツの色になって、たちまち溶けてしまう。雪そのものの白さが物を覆うこともないまま消えてゆく潔さを見つめる作者の胸には、どんな思いが去来しているのだろう。

  雪解川道したがへて曲りけり      小林 千晃

 川に沿って道がある。川が曲がれば道も曲がる。それ自体は何でもないことだが、まるで川に意志があるかのように「道したがへて」と見てとった。擬人化につきものの強引さはあるが、その強引さが雪解川の水の勢いを感じさせてくれるようだ。ただの川ではだめだと思う。

  紐持てば我にも懐きゴム風船      加納 洋子

 擬人法の句をもう一つ。ヘリウム入りの風船なのだろう。幼い子どもの手にした風船は、子どもが走り回ると、その子に懐いているように付いて回る。その風船を作者が手にすると、作者の手にも素直に付き従う。ふとよみがえる童心のもたらした擬人化なのだろう。

  風船に空の天井遥かなり           洋子

 手から離れてしまった風船か。「空の天井」の見立てに詩情がある。擬人化も見立ても俳句が月並みになりやすい要素だが、加納さんの二句は詩情がそれを救っている。

  一日を使ひきつたる桜かな       西山 純子

 夕日に照り映えた満開の桜を前にしている作者が想像される。遊びに出かけたと読んでもよいのだけれど、私はふだんの生活の中での感慨と読みたいと思う。朝からよく晴れて、掃除も、洗濯も、買物も、夕飯の支度もてきぱき運んだ。特別なことは何もなくとも、一日を余すことなく使い切ったという充実感が、桜をいっそう豊かに見せるのだ。

  たんぽぽや犬側溝の蓋歩む       寺田 折生

 舗装はされているものの道端にはたんぽぽが咲く少々ひなびた道である。主人とともに散歩に出た犬が、ずっと側溝の蓋の上を歩んでいる。それだけのことなのだが、この「側溝の蓋」というのが実に効いている。犬のリアリティここに極まれりといった感じ。そして、それを大真面目に写生した作者の面持ちを想像するとまた可笑しい。

  ラジオから美空ひばりや農具市     石井 祥子

 俳句に固有名詞を生かすには、その字面も大切である。かけっ放しのラジオから美空ひばりの歌が聞こえてきた。意味内容だけとれば野暮ったいことなのに、この「美空ひばり」の字面が塵一つ残さず吹き払った印象がある。空はうるわしく晴れ、雲雀の声まで聞こえるのである。

  北窓を開く福島までの距離       浅井 多紀

 家の二階の北向きの窓を久しぶりに開け放って風を入れているといったところだろう。そのときふいに、ひと続きの空の下に原発事故の地があることに思い至ったのだ。
 浅井さんは四月十日に亡くなった。この句を投函して間もないことである。死を目の前にしてなお同胞の苦難に思いを寄せ、それを確かな一句に仕立てた気概に頭が下がる。〈癌勢ひわれを蚕食五月尽〉と詠んで以来、よくがんばられた。ご冥福をお祈りする。

Copyright (C) 2007 鷹俳句会 All rights reserved.