今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  花に酔ひ月に酔ひつつ抜参      奥坂 まや

 江戸時代、庶民が一生に一度は行きたいと願ったのが伊勢参だった。伊勢講を組織して旅費を積み立て、選ばれた者が村落の代表として出かけた。抜(ぬけ)参(まいり)とはそうした手続きに従わず、親や主人に無断で伊勢参に出かけることである。
 江戸からならば伊勢まで片道十五日かかる。道中は桜の花が咲き満ち、今宵は月も朧。封建制社会の束縛から密かに解放された高揚感が主人公を酔わせるのだ。男女で示し合せて行くこともあったようだが、この句は一人旅がよい。
 季語を真っ向から詠みあげた句だ。歴史物だが絵空事ではない。現代だって仕事をさぼって、あるいは面倒な人間関係を逃れて人知れず遠くに行きたくなることは誰にでもある。伊勢路の風物、伊勢参の民衆に思いを馳せながら、やはりこの句は自分自身の心境を詠んでいるのだと感じさせる。


  レオナール・フジタ忌猫が眼で話す   小倉 赤猫

 忌日俳句は俳人たちの考案した一種の引用である。忌日を取り合わせることで、その人物の生涯や作品の連想の下に俳句を読ませることができる。しかも、お誂え向きに、忌日は必ず季語になる。

  燭の灯を煙草火としつチエホフ忌    中村草田男

 例えばこの句であれば、チェーホフの戯曲の場面が頭に浮かぶ。外国人の忌日に季感があるのかと目くじらを立てても仕方ない。ちなみにチェーホフ忌は七月十五日。
 小倉さんの句は日本人だが藤田嗣治ではなくレオナール・フジタとしたところに工夫がある。戦争協力者と批判された嗣治は、やがて日本国籍を捨て、カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとして死んだ。この句の猫は、かつてパリの社交界で活躍した嗣治の絵の猫たちを思い出させる。


  鶯の涙の氷る出養生          椰子 次郎

 湯治にでも来たのだろう。ところが温泉場の寒いこと。「鶯の涙も氷る」は古今集の次の歌の引用である。

  雪のうちに春はきにけり鶯のこほれる涙いまやとくらむ  二条の后(藤原高子)

 鶯の氷った涙も立春の今こそ解けるだろう。この歌は春を迎えた喜びを詠っているが、それとは対照的に椰子さんの句の出養生に春はまだ遠い。
 小倉さんの句、椰子さんの句、それぞれに主観の沁みた人間くさい動物たちだが、それがつまらない擬人化に終わっていないのは引用による背景の奥行きがあるからである。


  笹子待つむかしは人を待ちにけり    藤田まさ子

 そろそろ藪に鶯の笹鳴が聞かれる頃、その訪れを作者は心待ちにしている。「むかしは人を待ちにけり」と言うのは、今はもう待つべき相手もいないということなのだ。この句の「人」は男でなければならないだろう。そこには平安時代の妻問婚の気分が漂う。

  隠れ逢ふ野なりききのふ焼かれけり     まさ子

 藤田さんが昔詠んだこの句を思い出した。これも古今集を踏まえていたのだと思う。

  春日野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり  よみ人しらず

 「焼かれけり」には恋の終わりが暗示されている。それに対して笹子の句は、恋したこともはるか遠い昔のことだという静かな諦観がある。


  鶴折りて時代劇見て春炬燵       吉岡  亨

 二つのことがらを並列し季語でまとめる作り方はずいぶん試みられているが、並べたものが近すぎてはつまらないし、離れすぎては一つの像を結ばない。そのあたりの加減は案外難しいものだ。どちらかにしぼって丁寧に詠んだほうがよさそうに思われることが多いのである。
 その点、これは二つ並べてこそおもしろくなった句だ。鶴を折ること、時代劇を見ることに脈絡はないのだけれど、並べてみると春炬燵に親しむ人物像が見えてくる。


  靴べらに踵を落とす初音かな      古屋 コ男

 玄関で靴箆を使っていたらちょうど鶯の初音が聞こえた。ああ、春だなあという句である。初音といえば鶯を指す。春の到来を告げるものと見られていたからだ。
 この句で私が感心したのは「落とす」である。靴箆と踵の句は少なくないが、判で押したように踵を「滑らす」としている。少々食傷気味の「滑らす」とは違った実感が「落とす」にはあって、それも確かに靴箆の感触だと納得させる。こういう言葉を見つけるのが写生の醍醐味だと思う。


  ひとつかみ足してくれたる浅蜊売    重元 康子

 私が学生の頃だからもう三十年も昔になるが、東京に通う途中、船橋駅の路傍に数人の女が貝を売っていた。東京湾で掘ったものなのだろう。あのなつかしい浅蜊売がこの句には似合いそうだ。「ひとつかみ」に土地の人情が感じられる。これもいい写生である。

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