今月の鷹誌から秀句の風景


  いにしへの鈴の音雪の泉より      小野 展水

 この句に入る前に、同じ作者の次の句を見ておこう。

   空華忌の鹿や空華にちがひなし        展水

 今日、斎藤空(くう)華(げ)の名を知る人がどれだけいるか。私は「鷹」に入って間もなく星野石雀さんの次の句で知り、以来ずっとその名が頭を離れることはなかった。


   吾れ老いて年の湯に浮く空華さん       石雀

 空華は大正七年生まれ。渡辺水巴に師事したが、やがて出征。帰還後結核を患い、石田波郷が「生の証しの歌」と称えた作品を残して三十一歳で亡くなった。私が参照している『現代俳句辞典』で空華の項を担当しているのは石雀さんである。石雀さんは空華と同じ「曲水」に属し、空華は石雀さんより四歳年上の先輩だった。
 湘子先生は石雀さんのこの句の選評の冒頭、「俳壇もこういう句、解説抜きではわからぬ時代になったのではないか」と書く。これが「鷹」昭和六十二年二月号だから、空華没後既に三十七年。戦争直後の俳壇の記憶も風化しつつあったのか。石雀さんは湯槽でその年月をぼんやり振り返りながら、思わず「空華さん」と呼びかけたのだ。
 石雀さんの句からさらに四半世紀が過ぎているのに、私より年少の作者が空華を詠んだことに先ず驚かされた。掲句は空華の次の句を踏まえているのだろう。

   転生を信ずるなれば鹿などよし        空華

 もうこの世で人として生きることはできないと悟った人の句である。空華の忌日は一月四日。自ら信じたとおり空華は転生して鹿になったのだと、作者もまた信じたいのだ。
 さて、冒頭に掲げた句、雪の中に滾々と湧く泉にいにしえの鈴の音を聞きとめたのは美しい幻想だが、空華忌の句と併せ読めば、ああ、この鈴の音はいにしえの死者たちの声であったかと思わされるのである。その鈴の音のなんとなつかしいことか。

  梅白し死者のログインパスワード    折勝 家鴨
  

 情報が紙のものだった時代には、書類でも日記でも手紙でも、死者の遺すものはみな目に見えるものだった。ところがコンピューターの発達で、死者の生きた証はインターネットでつながった電脳空間に拡散した。
 ログインパスワードとはコンピューター操作の本人確認のための暗証記号である。これがないと情報の世界に入ることができない。死者のみが覚えていたパスワードで鍵がかかった情報は、生者を拒んでひややかに残り続ける。小野さんが雪の泉に古人の声を聞いたのとはまったく違う死者との向き合い方がここにはある。


   雪を掻くわれをはげまし雪降れり    戸塚時不知

 

 大雪の続いた今年は、雪掻の苦労も並大抵ではなかったろう。老いた者には命がけの仕事でもある。しかし、戸塚さんはそんな時でも俳諧の精神を忘れていない。雪を掻く傍から、あざ笑うようにまた雪が降り積もるのだけれど、それは自分を励ましているのだと跳ね返す発想が痛快だ。


  集落のずり落ちさうや雪解川          林 るい子

 雪解の季節を迎えて、厚い根雪が緩みはじめている。踏ん張るように斜面に張り付く集落も、そのまま谷までずり落ちて行きそうだ。この「ずり落ちさう」には、谷を俯瞰した印象が率直に言葉になったという手応えがある。対象をしっかり見ながら、こうした言葉を待つことが大切である。

   まんさくや陶工の墓韓を向く          梯   寛

 秀吉の朝鮮出兵の際、日本に多数連れて来られた朝鮮の陶工が、日本の陶芸の発展の基盤になった。焼物の代名詞ともなった唐津焼も、日本で最初の磁器を生んだ有田の伊万里焼も、朝鮮の陶工たちの賜物である。
 掲句の墓も唐津、伊万里あたりのものなのだろう。彼方に故国があるはずの海を向いて立っている。墓が海を向いているという類の句は山ほどあるが、梯さんのこの句は歴史と風土の厚みを感じさせて哀切である。

   トラツク洗ふ水の勢(きほひ)や初筑波      岩永 佐保

 「初」をつけて季語にしてよいのは初富士、初筑波、あとはせいぜい初浅間くらい、どこの山でもいいってもんじゃあない、と湘子先生は言っていた。筑波さんは標高一千もないのに、関東平野の遠望に富士と競う秀麗な姿を見せる。  掲句はいかにも初筑波が似合う。私たちの便利な生活は正月も休みなく走り回るトラックに支えられているのだ。



  櫟山寒靄あをくかかりけり       日向野初枝

 葉の落ちつくした櫟山である。作者の暮らしに近くある小山ではなかろうか。乾いた落葉を踏んで歩くと、生活の中でざらついた気持ちが静まっていく。その櫟山に対して、「寒靄あをくかかりけり」は描写と抒情と格調を兼ね備えた申し分ない讃辞である。水原秋櫻子の系譜に連なる私たちには、こんな叙景句がもっとあってよいはずだ。



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