今月の鷹誌から秀句の風景


  喉仏ごつくりと上げ海鼠嚥む      安  文雄

 なるほど、ものを飲み込むとき、喉仏はごっくりと上がるのである。これまで気に留めていなかったが、確かにそうなのだ。写生の要諦は発見にあると私はよく言うが、そういう意味で、これはまさに写生。外に出て自然を観察するばかりが写生ではない。写生の対象はどこにでもある。
 喉仏の動きを意識するのは、飲み込むことに余程意識がいく場合である。この男、海鼠が大嫌いか、あるいは好きでたまらぬかのどちらかだろう。私は後者と見た。海鼠が喉を滑り落ちていくのを、目を細めて味わっているのである。

  水が水引張つてゆく冬の川       清水 正浩
  

 これもまた写生と言えば言える。写生とは見たものを写しとるわけだが、俳句の写生は、カメラやビデオがどんなに克明に写しても見えないものを、作者の主観と言葉の力で見せてくれることがある。
 「水が水引張つてゆく」が、まさにそれ。映像ではけっして見えないものが、この句を通して見えてくる。そうした主観の働きは、作者の独りよがりであっては共感を得られない。対象をしっかり見て、実感が言葉に乗り移ったときに、初めて成功するのである。この句の場合、冬の川であるところがポイントだろう。水量がたっぷりあってはこの感じは出ない。涸れ気味の川の水が、それでも縷々とつながって流れているところを、作者は発止とだのである。


   小春日の病衣たためる妻の膝      青木さかお

 

 夫は闘病中らしい。日当たりのよい南向きの和室に床を延べているのだろう。妻がその傍らで、取り込んだばかりの夫の寝巻を畳んでいるのだ。夫に戸外の様子など話してやっているかもしれない。
 この句は、妻の膝を出したことで情景が生きた。正座した膝の上で、洗濯物が丁寧に畳まれていく。看病する妻のやさしさがその膝に表われている。俳句はモノをして語らしめるとはこういうことだ。
 「小春日の」の「の」に小休止がある。型通りに「小春日や」と切ってはこの句のやすけさが損なわれると、研究熱心な作者は考えたのだろう。その選択に私も賛成する。


  墾道の芒刈萱日の匂          服部 佳子

  墾道は「はりみち」と読む。新しく切り拓かれた道のこと。万葉集巻第十四に信濃国の相聞歌がある。
 信濃路は今の墾道刈(かり)株(ばね)に足踏ましむな沓はけわが背
 (信濃路は今開かれた道です。切り株に足を踏みつけないよう。沓をお履きなさい、あなた。)
 服部さんはこの句を狙い澄ましたように長野の指導句会に出してきた。たいしたものだ。これは晩秋の景だろう。芒も刈萱も穂がほほけて、たっぶり日を含んでいるのである。

   丈余の火たちたる牡丹供養かな     加藤 征子

  牡丹供養は牡丹焚火とも呼び、福島県須賀川の牡丹園で毎年十一月に催される行事である。私も何年か前に招かれた。寿命の尽きた牡丹の古木の粗朶を集めて焚くだけの静かなものだが、その炎の美しさ、芳しさに心を打たれた。
 加藤さんは地元須賀川の人である。昨年の地震で建物の倒壊の目立った地域だが、牡丹供養は例年通り行われたのだろう。粗朶の嵩はつつましいものだが、炎は人の背をはるかに越えてまっすぐに立つ。それは、ちょうどこの句のように、すっとした立ち姿なのである。

   みづうみは湛へて深し冬に入る     井門さつき

  冬を迎えた湖が、たっぷりと水を湛えて静まっている。鈍色の湖面が水底までの深さを感じさせる。
 この句、「深し」だけだったら、把握が通り一遍で実感が伴わない。かといって、水を湛えているのは当たり前。「湛へて深し」と言って初めて、湖水のボリュームが読み手にも迫ってくるのだ。言葉は不思議なものである。



  冬蜂のむくろ造花の下にあり      竹アたかを

  一読して次の句を思い出す。

   冬蜂の死にどころなく歩きけり     村上 鬼城

 鬼城の句と違って、掲句の冬蜂は死にどころを見つけたのだ。しかし、ずいぶん淋しい死にどころなのである。蜜を求めて造花に取りつき、空しく力尽きたか、という非情な観察がある。しかし、それを露わにしては嫌味になるので、あくまで素っ気なく写生した。その節度が程良い。



  コンビニの灯り休まず冬の雨      江渡 華子

  若い作者だが、この句の方向性はよい。コンビニが年中無休なのは常識に属するが、その灯りが休まないと捉えたことで、常識がリアルな現実として息づく。冬の雨を配したことも情景に血を通わせた。作者の白い息や冷たい指先が見えてくるのだ。こういう切り取り方を身につけてまわりを見渡せば、現代社会もさまざまな材料にあふれていることだろう。

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